院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


わたしと私


 昨年の十月、文部科学省第二十六回国語分科会漢字小委員会の会議において、「私」という漢字を “わたし”と読んでもいいことにしようと正式に(?)決まったようである。(議事録を読むと、どうでもいいようなことを、真剣に議論している様が滑稽であると同時に、このような方々のおかげで正しい日本語が連綿と受け継がれていくのだろうと感心もした。)このニュースを読んで、わたしは小躍りして喜んだ。これまでわたしは、「私」は “わたし”ではなく “わたくし”と読むのが正しい読み方であるということを知識として知っていながら、自身の拙文中には読者の皆様が、 “わたし”と間違って読んでくれることを期待して「私」と表現していたのである。なぜ “わたくし”と読まれるとイヤなのか。それは、 “わたくし”で始まると、「わたくし、サザエでございま〜す。来週もまた見てくださいね〜。」で文章が終わってしまうような感じがするからだ。それならば、「私」という漢字を使わず、「わたし」で統一すればいいじゃないかと考える御仁もいらっしゃるだろう。しかし、「わたし」と「私」では、視覚から入力されるイメージがまるで違う。実際的にも、「あなた」に対しての「わたし」であり、「貴殿、貴様、君」に対してはやはり「私」がふさわしい。日本の一人称・二人称の多彩さの素晴らしいところは、自身や相手を呼称するだけでその人との人間関係、その時の相手に対する気持ち、用心、防御姿勢を如実に表現できることである。やはり「私」という漢字を使わない手はない。自分の文章の中では、「わたし」と「私」の使い分けは、十分熟慮した上で行っているつもりである。ただ単に、公私の別や想定する読者との関係だけではなく、テーマの硬軟、文脈、文章全体の調子で、「わたし」がしっくりくることもあり、「私」でなければいけないこともある。しかし意到りて筆随うことは稀で、「わたし」であるべきか「私」がいいのか判然としないことはままあることである。読者との距離を計りかねたり、見つめるべき自分自身を見失ったりするからだ。でもそれが人間なのだと思う。「わたし」の知らない「私」がいたり、「私」の初めて出会う「わたし」がいたりする。その時々の「わたし」や「私」に喜んだり、驚いたり、落胆したりしながら、今年も健康で暮らせたらと願う年の初めである。



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